【閖上考】珍論「閖上」の文字の謎

閖JIS第2水準6F5D。かつて昭和という時代においてワープロやパソコンに標準搭載されていたのはJIS第1種水準文字までであることが多く、この字が出るというのは高級機の証であった。

という伝説があるそうです。ウチは知らない世代だけど。

大して見向きもされなかった謎の石碑

庚申信仰がさかんだったのかで述べた石碑ですが、その中でもこの石碑はよく分からないものでして、実はこれ「閖上」の文字の由来が書かれた最古の石碑ではないかというものになります。

閖上と思しき文字が書かれた石碑

この石碑の文字は正直なところほとんど読めませんが、どうやら元禄9年(西暦1696年)に庚申供養として建立されたようです。
ただ、これが庚申信仰に関係するのものなのかが甚だ疑問で、まず庚申を前面に出しておらず、青面金剛もありません。そして上部に刻まれている梵字は大日如来です。
この石碑は閖上の文字と、申、酉の部分が他と異なる彫り方をしているのが分かります。
奇妙な点は他にもありまして、トリはつがいの一対ですが、サルは三猿が揃っていません。しかも見ざる聞かざる言わざるの三体を配置するどころか、二体のサルが左右に離れています。おそらくトリと同じく雌雄一対または阿形吽形の配置だと誤解していたのではないかと思われます。

さて、「閖上と思しき文字」の横の「導師」と「大善院」とあるのが気になりますが、大善院とはどうやら現在の仙台市太白区袋原落合にある「落合観音堂」の本院のことらしく、伊達政宗により修験道大善院から無畏山落合寺となった寺の別当として当時の袋原村に建立したものが落合観音堂(本尊は十一面観音)らしいです。

観音様といえば、閖上に淘上山観音寺という仏寺があります。宗派は真言宗智山派。創設は天正10年(1582年)とされています。観音寺という名称からわかるように本尊は聖観世音菩薩であると言われています。この「淘上」はゆりあげのことで、閖上となる前の「ゆりあげ、もしくは淘上濱」という名称はいろいろなものが「揺り上げられた浜」であったらしく、名取市内にある那智熊野神社の御神体はまさに閖上の濱にうちあげられたものだと言われいます。湊神社のすぐ近くにあった修験道天正院(のちに湊神社の所有となるも東日本大震災により流失)に収蔵されていた仏像にもそういったものがありました。
観音寺の山名「淘上山」というのも字面通りであればすくい上げるわけで、地名・仏教的な意味合いとした当て字として理にかなっているでしょう。
つまり、ゆりあげは沿岸部、しかも名取川の河口付近であるがゆえに水が当たり前にあるが、その水をことさら強調する特徴があった土地ではなかったという可能性があるのです。

という前置きをしたところで…

地名に「閖」が付いた説

ところで、閖上の地名の漢字に「閖」が付いたことについてはいくつか説があります。

伊達の殿様が門から見えた海(水)の方角がゆりあげの濱であった説

よく知られている説は「伊達の殿様が門から見えた海(水面)の方角がゆりあげの濱であった」というもの。これが一応の通説にはなっているようですが、疑問点はあります。

落合観音堂とは、伊達政宗が閖上への途次のさい通った観音堂に霊験を感じ、無畏山落合寺の別当としたものが発端とされています。また、ゆりあげにも御仮屋(オカリヤ※)があったと言われていることから、いくつかの拠点のひとつにすぎなかった。それをわざわざ見通して門の中に水があるから閖上にと言うのか、話としてはそんなに筋が通っておらず、英雄を箔付けとして利用した作り話ではないかという気がします。

そしてこれもよく聞く話ですが「閖の字が地名として唯一使われているのが閖上だ」というのは間違いで、石巻市桃生町に「閖前」と「閖谷地」という地名があります。

ここについてはあまり興味がないので調査していませんが、現況の地図から察するにおそらく湿地帯であったと思われ「濡れた土地」という意味だったのでしょう(古地図を参照すべきであろうが、地形が大きく変わるような開発はなされていないようなので十分であると判断した)

このことからも閖上伊達命名説はあまり強くないものと思われます。

※なお、亘理郡亘理町荒浜には御狩屋(オカリヤ)という地名があります。

かつて大火に見舞われたとき、防火にあやかり水のある文字をあてた説

もうひとつ、こちらが個人的に推しなのですが「かつて大火に見舞われたとき、防火にあやかり水のある文字をあてた」という話があります。

この話は個人的に懐疑的でありました。確かに閖上では火災(放火)が発生した時に火除けとして福島県にある山津見神社を分霊勧請していますが、どうやら明治時代の話であるので、それっぽい作り話なのだと考えていました。

ですが、ここでもう一度あの石碑の疑問点を見直してみましょう。

庚申供養とはあるものの、庚申信仰とは直接関係ないのではないかという疑問のもう一つは、わざわざ干支での年号を記述しているというのがどうにも引っかかるのです。建立されたのが「丙子(ひのえ ね)」の年だとして、干支では「丙は陽の火、子は陽の水」=水剋火の相剋(そうこく、互いに打ち滅ぼす)となります。その意味は水は火を消す。すなわち防災に関する何らかである可能性があります。

火災に関してはどうやら元禄年間以前にもあったらしく、その火災が収まったのちに立ち寄った僧侶が「門の中に水を書けば火災を逃れられる」と言ったのでそうしたという話があります。僧侶、つまり石碑に刻まれた大善院の導師とつながります。なお、大善院(落合観音堂)は真言宗智山派の寺院となっているので、大日如来とのつながりもなくはありません。

そして、もう一つは湊神社(みなとじんじゃ)の存在です。細かい歴史は省きますが、同社は奈良時代(8世紀)のころに「ゆりあげ水門(みなと)明王神堂」として建立されたのが始まりとされており、じつは案外歴史の深い神社なのです。現在の湊神社という名称になったのは明治に入ってからのことで、それまではいくつか名称が変わったものの統一されていたのは「水門(みなと)」であったのです。つまり、ゆりあげと水門(みなと)は歴史上密接に関連していたことになります。

このことから「水と門を持つ閖」の字をあてたのではないかと考えるのはさして不自然なことではなく、おそらくは防災を怠るなという戒めを後世に伝えようとする先人の想いを形にしたもので、地名に「水」があることが最も重要であったのでしょう。

だが、もはやその歴史と意味は失われた

これらの話は庚申塚同様、今となっては「わりとどうでもいい話」になります。
なぜなら、これは繰り返しになりますがもはやその地名の歴史的な意味が失われたのですから。

仮にその意味が防災であったのなら、その先人の想いを受け止められなかった私たちはこの地名にすがりつく資格があるのか、今一度問わねばならないでしょう。

※これらの考察は個人的見解に基づくものであります。