【閖上考】湊神社は歴史と共に変化していく

湊神社(みなとじんじゃ)は閖上の中心としてあり続けている神社。時代の流れとともに変わってきた歴史があります。

湊神社は意外と歴史がある神社

湊神社(みなとじんじゃ)は奈良時代(8世紀ごろ)に不動明王など五明王像を祀った「ゆりあげ水門(みなと)明王神堂」が起源だと言われています。

当時はまだ「閖」という文字が存在していませんでした。閖の文字については別の記事でどうぞ。

東日本大震災前の湊神社

ご祭神チェンジ?よくわからない祭神

時は流れ室町時代、応永年間の頃というなんともアバウトな時期に春日大社よりいわゆる春日神を勧請(かんじょう、分霊)したとされますが、どういうわけか健御賀豆智命(タケミカヅチノミコト)と、伊波比主命(イワイヌシノミコト)となっています。
どういうわけか、というのはまず字が違う。それでもグーグル先生は建御雷を検索してくれるのですが。

細かいことは置いておいて、春日神は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と、比売神(ヒメガミ:神の固有名称ではなく、比売神様として祀られている場合は主祭神に関連のある神だったりするらしい。春日大社では天照大御神または天児屋根命の妻ではないかと説明されている)で四柱となるそうです。
一応公式なデータとして活用している宮城県神社庁の神社検索データベースでも「健御賀豆智命・伊波比主命 他2柱」と記載されています。
ここからはかなり私見が入りますが、この「他2柱」が仮に前述の春日神であれば「他」という記述はどうなんでしょうかねという気がします。
時系列で見ても春日大社がいわゆる春日四神になった時代が西暦768年かそれ以前。春日神がゆりあげの地に勧請されたというのが応永年間なので西暦1394年~1427年ということになるため四柱勧請が自然ではあるのですが、文字の表記の違いからしても難しいところであります。

ではその「他2柱」とは?

先の二柱、天児屋根命と比売神ではないのでは?という仮定からすると、境内にありかつお社を構えている船魂(ふなたま)神社と三峰神社ではないかということになります。
船魂神社は船を神格化したものらしいのですが、詳しいことが分からない。山神などに属する類の民間信仰のものではないかと思われます。成立はいつなのかもわかりませんが、これは古くから閖上では船を使った営みをしていたことを示唆しており、航海の安全を祈願していたのかもしれません。

結局のところどうなんだよ?

湊神社の宮司さんは春日神四柱であるという見解であります。

湊神社はいつも住民のよりどころであり続けた歴史があった

湊神社の歴史は時代によっていくつかの転機があり、時代に沿って変化し続けていたと思われます。

近代に目を向けますと、明治時代の神仏分離令によって湊神社となる前には「水門四社明神(4つの明神様を祀っていたとされる)」と呼ばれていたなど、湊神社は時代の中で住民(氏子)のニーズをとらえつつ、いつの時代でも地域の中心でよりどころを担ってきたのだろうというのは想像に難くありません。このころにはやはり濱に揺り上げられた十一面観音が奥の院に祀られていたといいます。なおこの十一面観音は神仏分離令により神社に置くことができなくなったのを機に観音寺に移され脇佛とされたそうです。

湊神社は旧社格では村社となっており、宗教法人として登記されたのは多くの神社と同様に戦後のことです。

冒頭、湊神社は「ゆりあげ水門明王神堂」が起源となると書きましたが、これは現在の場所だと名取川の真ん中あたりになります。
明暦3年、神託によって旧閖上二丁目の位置に遷座、のち2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で築百年を超えるという社殿を含め境内の施設が流失しました。

神籬として再建を待つ

震災直後、まだ瓦礫処理も​はじまらないなか、湊神社の宮司、総代衆、震災ボランティアの手により閖上日和山に湊神社と富主姫神社の神籬が建てられ再建の日を待つことになりました。

そして2年後、日和山の末社富主姫神社の新しい社殿が建立、それを仮殿として閖上の地を見守り続けることとなります。

幸いなことに、被災直後、全国から神輿などの寄附が集まり、東京上野の下谷神社とその氏子の皆さんの協力によって、湊神社の例祭を再開させることができたのはその翌年のことです。ですが、いまだ復興の青写真もままならぬ状態であり、丸一日かけ町内の隅々まで練り歩き、担ぎ手は振舞われる酒で、閖上の言葉で言えばぺろぱい(※へべれけ)になるというかつてのにぎやかな神輿渡御とは行かず、まだ瓦礫の残る日和山周辺の約1キロメートルほど回るのみにとどまりました。それでも、応急仮設住宅で生活するかつての住民はお祭りの再開を喜んだのです。

ここまでが、今までの転機であります。

そしてあらたな転機へ

ようやく復興に伴う区画整理が進み、境内地は元の場所から変わることとなりました。

じつに数百年ぶりに遷座することになります。そのための再建事業が平成30年に立ち上がりましたが主に資金の面から完成のめどはたっていません。
再建事業への着手が遅いのではないかという批判もありますが、遅れた原因はただ一つ、名取市の復興計画の進捗に合わせたためで、新境内地が決まり引き渡しを受けたのが平成29年、震災から6年も経ってのことなのです。それまで再建計画の概要も立てられず先行して事業の資金を募ることもできず「そのうち再建する」と言うしかなかったのです。

この間、湊神社といえば日和山というイメージが固まっていくことに筆者ももどかしさを感じていたことを覚えています。

お伊勢様の鳥居が立つ!

そのような中、伊勢の神宮より式年遷宮で生じた檜古材50石に加え、鳥居を賜ることになったというのは大きなトピックです。古材の譲渡でさえ特筆に値する出来事ではあるのですが。

伊勢の神宮より賜った鳥居。閖上の復興のシンボル

湊神社再建に先立ち鳥居の建立となったのは閖上の復興とともにあるべきという願いがあるとのことです。取材ではこの鳥居は内宮の鳥居であったものだそうです。このサイズであればどのあたりのものかおおよそ察しが付くのではないでしょうか。

変化して行くなかで現状はどうなのか

令和元年初夏の状況として、鳥居、倉庫と神輿殿が建てられましたが必要最小限のものとして、です。社殿が仮殿であるのは資金もさることながら、神輿や備品の収納について早急に対応しなければならないため優先したからです。

再建途中の湊神社。社殿も仮殿となっています。
湊神社新境内地の仮殿。ショボいというご意見もいただきますが仮殿ですので…

伊勢の古材を一部利用した神輿殿。大神輿と4基の子供神輿、太鼓と山車は震災後、全国各地から寄附されたものです。この保管場所の問題から神輿殿を先に建設しなければならなかったのです。

神輿殿。宵の口のあいだはライトアップされています。
伊勢の神宮より譲渡された古材を活用して建築されています。

いまむかし、これから…託される未来

残念なことですが、住民氏子の方々も被災し再建途上であること、震災が風化しつつあり、さらに各地で地震や豪雨災害が立て続けに発生するなか、奉賛金も集まりにくい状況にあります。

復興はいまだ半ばですのでもう少しだけ皆様のお力添えが必要です。

閖上湊神社ホームページ(外部サイトへ移動)