【閖上考】日和山神社ではなく、富主姫神社です
富主姫神社(とみぬしひめじんじゃ)は、閖上日和山に鎮座する小さな神社で湊神社の末社という位置づけになっている神社。
この神社も東日本大震災によりその歴史に変化が見られました。
大辯才天女垂迹富主姫大神
この神社の祭神は市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)とされています。
市杵島姫命は神仏習合の時代に本地垂迹説(仏教の神仏が日本神話における神の姿で現れたとする説)で弁才天と同一神とされた神です。そのため富主姫神社の祭神は弁才天ということになります。一般的に弁天様といえば金運・財産運の神様として知られていますが、富主姫神社では湊神社と同じく、海上安全と豊漁のご利益があるとされており、かつての閖上が海事で栄えていたことをうかがわせます。
どうにもつじつまが合わない由緒
『伊達藩の下命を受け幕府に献上する塩を運ぶ船が房州沖で遭難した際、船頭が竹生島弁才天に祈願したところ無事帰ることができた。その御利益に感謝し竹生島弁才天を勧請した』という説が有力らしく、歴史的には江戸時代の頃になるらしいけど具体的な時期は不明です。
まあ、こまけえこたぁいいんだよ!
それでその弁天様を勧請した先が、伊達藩より専売制で塩業者を営んでいた伊藤家で、その邸内宮として塩場近くの沼に弁天島を作り祀られ海上安全以外にも豊漁などの御利益をもたらしたといわれます。町内の参詣者が増加したことからお宮が富主島に移され富主弁天と呼ばれるようになります。ただ、この参詣者の増加についてはご利益以外に、弁才天の祭日に海に出た漁船が海難に遭ったことから祟りをおそれ熱心にお参りするようになったとも言われています。
社名の由来について閖上にあった旅館「冨主旅館」の敷地にあっただと語る住民も少なくありませんが、どうやら伊達藩による貞山運河開堀のため富主島がなくなることから対岸にある冨主旅館の敷地へ一時的に遷座したことがあるのは事実のようですが、時系列から言えば富主姫弁天と呼ばれたのが先になります。
その後、湊神社に合祀されるためさらに遷座し、大正9年~11年に日和山が築山さるとその山頂へ遷座され現在に至るという経緯をたどっています。
失われた地名
弁天島、富主島は現存していません。富主島は閖上の北東部、貞山運河と名取川が交差する付近にある宮下橋の対岸、すなわち旧閖上3丁目のあたり(現在、水産加工団地の一部となっている)になるようですがその痕跡を示す地名すら確認できません。かろうじてその痕跡を残していたのが、貞山運河と名取川が交差する場所、現在の水門のあたりにあった「宮下橋」で、その名の由来が富主島のお宮の下にある橋という意味だそうです。富主島とお宮がなくなってもその名前が変わることはなかったのですが、やはり意味をなさなくなったものなのです。
漢字の疑問。富主姫弁才天はウの富主かワの冨主か?
「とみぬし」の漢字表記については悩ましいところでして、ワ冠の「冨主」のほうが旧字体っぽいので、そちらが正しいのではないかという疑問がなげかけられることがあります。これについては湊神社の宮司さんいわくウ冠の「富主」であろうとのこと。
閖上には冨主姓の方がいますが、それは人。神と人の違いとして点の多い「富主」になったのであろうとのことです。
東日本大震災と富主姫神社
お社は2011年3月11日発生の東日本大震災の津波によって流失してしまいました。
現地復興に関心のある閖上の住民でも日和山と富主姫神社にはあまり興味がなかったのは事実です。そもそも由緒どころか祭神すら知らない、あまつさえ日和山神社などと言ってしまう有様でした。
震災から2,3ヶ月後、日和山の頂に神籬(ひもろぎ。平たく言えば仮設の神社のようなもの)が建てられ、湊神社とともに再建の日を待つことになります。
現在のお社は震災から2年後の2013年5月にクラウドファンディングで資金を集め、湊神社の総代で宮大工の手により新たに建立されたものです。
全国の皆様よりの奉賛はまことにありがたいことである反面、神社のこれまでの歴史を絶やさず、そして新しい歴史を支えてくれた大半の人は閖上以外の人というのもまた事実なのです。
変貌する神社と日和山
富主姫神社が鎮座する閖上日和山。ここは災害危険区域の指定となり人が住むことができないため復興は遅れました。その過程で日和山公園は公園として廃止されましたが、震災メモリアル公園とは名ばかりでなにがメモリアルされたのかさっぱり分からない公園として整備されましたが、神社がこの地を見守るこのに変わりはありません。なお、日和山自体は名取市の市有地になっていますが、それ以前から神社があるという歴史を鑑みそのままになっています。
日和山は東日本大震災を機に、震災犠牲者の鎮魂・慰霊の場所となり多くの人々が訪れるスポットになりその役割が大きく変わりました。
関連リンク【閖上考】君の名は、日和を見ない日和山
新しい社殿は富主姫神社はもちろん、いまだ再建半ばである湊神社の仮殿のほか、震災犠牲者を祀る鎮魂社となりました。
お立ち寄りの際にはぜひ手を合わせていただきたいと存じます。
※これらの考察は個人的見解に基づくものであります。
メモ
辯才天(べんざいてん)
弁才天はもとをたどるとヒンドゥー教の女神サラスヴァティであり、河の神、技芸に長けているとされています。それが仏教に取り入れられた際にサラスヴァティの漢語となる辯才天と書き、辯の字を同じ発音の弁に置き換えたものが弁才天で、どちらも同じことを指しています。
また日本においてはザイの当て字として「弁財天」と呼び、金運・財産運のご利益をもたらすというご利益が追加されました。ちなみにこの場合は辨財天と書きます。
大辯才天女垂迹富主姫大神(だいべんざいてんにょすいじゃくとみぬしひめおおかみ)
弁天様(大辯才天女)が富主姫の神(富主姫大神)として姿を現した(垂迹)という意味。
江戸時代の頃に奉納された辯才天の掛軸に書かれていたという。この掛軸は天正院に収蔵されていたといわれていますが、いつしか失われてしまい現存していません。