【閖上考】君の名は、日和を見ない日和山
閖上日和山と呼ばれるものは大正9年、当時の閖上住民によって築山された人工の山のことで、推定標高はTP 8m程度。
現在は閖上における非公式な東日本大震災の唯一の震災遺構と言って差し支えないでしょう。
現在の日和山は二つめか?
現在の(閖上)日和山の築山の経緯は、国の戦意高揚の一環として忠魂碑を建立するためです。この山を建設するにあたり、背負いかご(通称「ヤンダ箱」※やんだ=嫌だ)に土を入れて運んでいたといわれていますが、勤労奉仕の他、いくらかの日当を支払って雇い入れていたといわれています。
築山時は鏡餅のような二段になっており、その中間に鳥居があったため、下段の部分が埋め立てられた後の鳥居も中間に建てられていたものと思われます。
昭和時代には痕跡がなかった先代の日和山
現在、震災のシンボルとして広く知られている日和山とは別に、日和山(法華山)というものが明治時代あたりまでは存在していたらしく、名取川河口に海難救難所があったらしくその付近にあったそうです。そちらは日和見に使われていたと言われています。震災前すでに何の痕跡もありませんでした。
東日本大震災によりその意味が再定義された
東日本大震災により他の構造物は瓦礫として片付けられ処理されていくなかで、日和山はその被災した閖上を一望できる場所であることから、観光と鎮魂・慰霊の場となりました。宗教の垣根などなく、です。様々な宗派の仏教や神道、キリスト教からハワイのフラによる慰霊まで行われました。名取市により建設された慰霊碑よりも日和山のほうが観光スポットとして人気があったでしょう。
震災後の日和山の誤解
多くあったのは語り部タクシーによるガイドで「この山に数十人が避難し津波を逃れた」というもの。ですが、あの日、日和山は全体が津波にのまれました。これ以上の言及は勘弁していただきたい。
これは石巻市にある日和山の話を混同したものだと思われます。
忠魂碑は都合の悪い遺物になった
忠魂碑は震災前まで、日和山の頂上正面に海の方を向いて建てられていましたが、津波で押し流されてしまい、ながらく山の裏手に置かれていました。所有者等扱いが不明ということもあり(少なくとも、名取市も湊神社も所有・管理ではない)放置されていましたが、震災メモリアル公園内に移設されました。
なお、ガイドの中には(というか伊勢志摩サミットに先立って宮城で行われた会議の時に乗じて作られた案内板にも)「海の日和を見るために作った」と、もっともらしい説明がされていますが、上記の通り別の理由があって作られたもので、日和を見るために使われたのかについては不明。なお、この日和山のあるあたり、江戸時代は海でした。
閖上のあたりは伊達藩の五十集(いさば)であったし、富主姫神社の成り立ちを見ても分かる通り、海運も盛んであった。その時期に建設されたのならともかく大正にもなってわざわざ大変な思いをして作る理由がない。それこそ櫓でも建てた方が、いくら大正の世とはいえ手っ取り早かったと思うのですが。
ちなみに、この日和山を築山するために使った土はすぐ目の前から掘っていたそうで、その穴を利用して鰻の養殖をしていたらしいです。なんとも商魂たくましい話です。
それも昭和時代には埋め立てられ公園と住宅地になりました。
あの大ヒットアニメ映画で地味に話題にはなったものの…
新海誠監督の映画「君の名は。Your name」作中に直接出てこないためあまり知られていないことですが、同作品の起点となったのは閖上と、この日和山だそうです。
災害とその犠牲を防ぐために伝えようとしても伝わらないもどかしさは現実としてあったことなのです。そうした視点で作品を見ると、当地閖上と日和山は全く出てきません。大地震にもならない。山間部での彗星の落下や、神秘的な何かによって過去と未来が交錯するというやや荒唐無稽に近い物語に仕立てられていますが、そのことはかなりストレートに描かれていると思います。
氏が見たもの感じたものをそのまま描写しないことで、閖上はアニメの聖地巡礼の地になりそこねたのですが、やはり心情として理解できるものがあります。
松と桜、奇跡とは見過ごされるもの
冒頭の画像を覚えていますか?
日和山の特徴的な松の木は被災前から生えているもので、津波にも流されずいまだ枯れず青々とした葉を付けており、まさに奇跡の一本松でありますが、残念なことにそれすらも興味のないという有様です。
もう一つは、やはり津波で倒壊したもののまだ枯れずにいる桜があります。震災の翌年は花を咲かせたとのことですが、それ以降はかろうじて生き延びようとしている状態。これも興味は持たれておらず、有志が柵を回したにすぎません。
東日本大震災からの復興、そして未来の日和山とは
この山のはじまりは国による戦意高揚のためのものでしたが、明治維新そして太平洋戦争を経て日本という国が大きく変わった中で、白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん。白河の関より北は山ひとつ100文の価値しかない)とまで言われた東北の片田舎にある小さな山はその意義を失うと、地元から出兵し帰らぬ人となった者の慰霊の場として、そして住民の憩いの場へと変わります。そして現在は震災を知りその犠牲者を弔う場所へと変貌していきました。今も昔も、そしてこれからも日和を見ることのない山はそれ以上のものを見つめてきたのです。
被災直後からの景色も変わりましたがこの場所は残してゆかねばなりません。名取市は震災瓦礫の後始末について迅速に対応する一方、震災遺構として残すものに対して国からお金が出ると聞くや否や慌てて対象物を探し回るなど紆余曲折を経て、最終的には震災遺構を造らないという結論に至りましたが、ここは震災の痕跡のほんのひとかけらが残された場所なのです。とはいえ積極的な保存行為は行われていませんのでいつかは風化してしまいます。まさにその時、被災地としての閖上における震災メモリアルは潰えることでしょう。