【閖上考】庚申塚は庚申信仰が盛んだった名残りなのかは誰も知らない

閖上には「庚申塚(こうしんづか)」という地名があります。
はるか昔、庚申という民間信仰が最も盛んだったころに建立された「庚申」や「庚申塔」と書かれた石碑、皆さんの近所でも見かけると思います。閖上湊神社には大小6~7基ほど庚申塔の石碑があったと記憶しています。

今回はそのお話。

庚申信仰(庚申待)とは

青面金剛をあしらった庚申塔

この画像は津波で流されたものの破壊されず残ったひとつですが、単に庚申と書かれたものではなく、庚申信仰において本尊と思しきものとされる青面金剛の像が彫られています。
時代は像の右に「元禄十四(辛巳)」の文字が見えるので300年以上前のようです。
その下にサルとトリが彫られていますが、おそらく青面金剛を彫った人とは別と思われます。はっきりとはわかりませんが、もしかするとこの青面金剛は既製品で、それに後からサルとトリを彫ったのではないでしょうか。

庚申信仰において始祖や本尊はないとされているそうですが、この青面金剛だとされることが多いそうです。青面金剛については何の宗教の神様がもとになっているのかもよくわかってないようです。

もう一つが、サルとトリで、サルは見ざる聞かざる言わざる、トリはつがいになっているのが特徴で、これは干支(昔の暦年カレンダーのようなもの)の庚申(かのえさる、こうしん)と辛酉(かのととり、しんゆう)にかけていて、五行思想によると庚申は陽の金の比和、翌年の辛酉は陰の金の比和となり、どちらも人の心が冷酷になるため良くない年であるとされていたことに由来するそうで、暗号めいた知的な側面が垣間見れます。

庚申塚、あるいはそれに類する名称はほかの土地でも見られる地名で、たいてい庚申信仰に関する痕跡が確認されています。このことから閖上字庚申塚というのはこの地域の庚申信仰のメッカであったというのは想像に難くありません。そしてかつての湊神社の境内には庚申塔の石碑が数多く残されていました。いくつか周辺の神社やお寺を見て回りましたが、これほどの数は見たことがありません。おそらく、江戸時代当たりの閖上というのはそういう信仰に厚く、またそれをできるだけの財力があったのではないかと思われます。

このような遺物は区画整理、圃場整備などの事業の時に地域内の寺や神社に移転しているらしく、湊神社の境内に集まったのだろうと思われます。

その歴史に価値はあるのか?

これら庚申信仰のイコンの価値は?と聞かれれば、閖上に限って言えば全くないであろうと考えます。
冷たいような話ですが、この信仰はすでに地域において継承されているものでなくなって久しいものだからです。
あまつさえ、庚申信仰が盛んであっただろうことも、その中で人々が願いを込めて建立した庚申塔などの石碑も、歴史的な価値を見出されず時代とともに埋もれてきたものです。
東日本大震災以前においても、庚申塚は田んぼといくつかの民家があるだけのエリアでした。
すなわち、すでに地名の意味までもが失われているのです。

全ての歴史は未来へ残すべき遺産なのか

東日本大震災により壊滅した閖上は、復興によって新たな町名「閖上東、閖上中央、閖上西」になりました。その中で、閖上字庚申塚という地名の区域は消滅し「閖上中央」となりました。すべての閖上字○○が消滅したわけではなくいくつかは残っていますが、閖上という単体の地名はなくなったのです。
そしていずれは「かつて庚申塚という地名があったということも知らない」時代になるでしょう。
だとしても、そうしたことでその土地の歴史が途絶えることは、特段由々しき事態ではありません。

「今に生きる私たちが見向きもしなかった歴史なのだから」

歴史もまた時代の流れによって取捨選択されるものなのです。

※これらの考察は個人的見解に基づくものであります。